両親や祖父母が毎日やっているお祈りの儀式や作法を見て、そのようなものを毎日やるのだとなんとなく見様見真似で同じように行動していた。
遊びの約束があるときでも毎日の儀式はあったので、少々うっとうしかった時もあった気がする。
それでもやらないと落ち着かない感じの気分にはなったのを覚えている。
はっきりとした思いの芽生え
祖母がトラックにはねられて大怪我をして生死の境目をさまよったときに、祖父が病院のベッドで祝詞(のりと)を唱え続けると、その声を聞いて三途の川らしきものを渡るのをやめたという祖母の話を聞いたとき。
また、母の知り合いの信仰者が阪神大震災で被災したとき、大難を小難に・小難を無難にしてもらえたという話を母から聞いたとき。
何か大きな災害があったときや、危険な状況に陥ったときでも、「きっと大丈夫」という精神状態を保てるようになることを期待したし、それが実現したとも思っている。
大難を小難に、小難を無難にしてもらっている気がする。
確信が持てる理由
自分が信仰している宗教が唯一ではなく、信仰しているから偉いとかそういうわけではないという点。
他者に対しても、強引に勧誘するのではなく、その人が納得したら始めればいいという寛大な点。
お祈りでさえも、朝、夕のお祈りの儀式15分くらい、月に一度のお祭りの儀式1時間くらい朝昼夜ごはん前にお祈りの言葉を言うこと15秒くらいのものです。
信仰を持つようになって
信仰を持つようになってから、いつも不安でしょうがないということがなくなった。
何かあっても、「きっと大丈夫なのじゃないか、大難を小難に・小難を無難にして頂けるのではないか」というような心持でいられるようになった。
気持ちが穏やかで、すがすがしくいられるようになった。
気持ちを強く持てるようになったことは、とてもいいことだと思う。
祖父母、両親も高齢になってきたが、みんな信仰をしているので老後も他の人に比べて気持ちを強く持って生きているようなので、安心していられてありがたいと思う。
他人に広めようとはあまり思わないが、他人から興味を持って尋ねられたりしたら、良い点を伝えられるようになったと思う。
信仰の糧
両親が熱心に信仰しているので、親孝行の意味でも続けたいと思うことが動機のひとつである。
実家に帰ったときにお祈りの儀式に参加したりしたい。
そして、具体的な行動(お祈りの儀式に参加するなど)はしなくても、心の中では死ぬまで信仰していきたいと思う。
そうすることによって、自分の中に安定・安心が芽生えると思う。
信仰を持つ事への不安
他人から信仰しているということに対して偏見の気持ちを持たれてしまうことが怖いと思う。
具体的になぜ信仰しているのかを、はっきりとした言葉で伝えることができないからだ。
自分からは積極的に信仰を持っているという事実はあまり告げないようにしている。
聞かれたりしたら、包み隠さず答えるようにはしている。
私の信仰
ただ信仰するのではなく、生活習慣をきちんとし、体に良いものをとって自然と共存していくという点。
我先にという考えを改め、他者とうまく生きていくことが大切であり、他者への尊敬の意識をしっかりと持つことの大切さを感じながら信仰を続けていきたいと思う。
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