神の存在




自分の母が熱心な仏教系の信者でした。
幼い時からお経を聞いて育ち、高校三年生まで教会に行っていました。
また母は神道にも敬虔で、時々神社にも参拝していて、私も小さいころは一緒についていきました。
お数珠は、子供のころの私にはおもちゃのようなものであり、またいつも身に着けているものでもありました。
母にとって、神仏がすべてにとって第一であり、私もそのように教えられ、それが普通の生活と思っていました。
やがて大学に進学してひとり暮らしを始めて、母の信じている宗教に対して真剣に考え始めました。

聖書との出会い

ある日、古書店で「聖書」を見つけました。
また同じ頃、街角でキリスト教の団体のグループがゴスペルを歌っていました。
どちらともなく話しかけ、宗教や聖書のことから話し、それからいろいろ学び始めました。
幼い時から宗教や信仰というものに接していた私は、何よりも「何を信じる」のか、ということを求め探していました。
私にとって「仏」というものは曖昧な概念であり抵抗がありましたが、私は聖書を通して絶対的な「神」の存在を知りました。

絶対的な神の存在とは

幼い時から何を礼拝しているかちゃんとわかっていませんでした。
母や教会の人たちの言う事が理解できなかった。
しかし聖書やキリスト教の教義を学んで、「神」がおられ、救い主がいるということが自分にしっくりあっていると思いました。
その時心の中の迷いが消えたのです。

信仰とは

私にとって信仰は、他者からどう見られるかではなく、自己の「心のよりどころ」であり、霊の救いです。
心のよりどころである聖書との出会いは、人生において最大の魅力です。
また神(救い主)に祈る事、祈りをささげる対象がはっきり見えることも、私にとって良かったと思います。
教会(キリスト教)の勉強会も大いにためになりました。
信者さんたちとの語らいの中で、信仰生活のあり方などを聞くことができました。
また、物事の価値判断や倫理観念に一本の指示道ができて、生きていく上での指針となっています。

強い心

これは些細なことかもしれませんが、私は子供のころから「お化け(幽霊)」の類がダメだったのです。
しかし、はっきりした信仰を持つようになって、それらがまったく”怖くない”ようになったのです。
これはとても大きな変化でした。
つまり、生きる上で心の支えがあるということでしょうか。
何物にも揺るがない、確固とした信念をもてたことは大きな自信につながりました。
この信仰の道を山登りに例えるならば、自分はまだ麓に近い所に立っているのではないかと思います。
この世的なものの欲求と宗教的な世界との狭間で揺れ動く、自分の心の中の世界。
これは信仰を続ける限り終わることはないと思いますが、この心の中の戦いは大きな苦しみであり悩みです。

聖書と私と神

聖書の中で救い主が私たちに諭している教えを、いつも胸に抱いています。
それは「神を愛し、自分を愛するように人を愛する」こと。
神を第一に考え、自分自信を大切にするが利己的にならず、他人への思いやりを忘れない、ということです。
信仰心に限ったことでなくても大事なことですが、とかく教義的なことばかりに目が行き過ぎて肝心なことを忘れてしまいます。
できない自分を責めてばかりいたり、他人の欠点ばかり探していたりすると、自分の信じている「神」が何なのか忘れてしまいましからね。




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