祈りの儀式が変えた人生




以下は、いまから10年前、自分が28歳の時の出来事である。
そのころ、私は機械工学を専攻して小さな機械メーカーに勤め営業職を務めていたが、当時は外国製品に押されて不調となり、ボーナスもカットされ、同年代の友達に比べて年収は半分程度に落ち込んでいた。
私には、会社にもプライベートにもこれといった友人はいなかったが、それよりも家族関係が悲惨だった。
家族は不和としか言いようがない状態だった。
両親は、妹が生まれた時から、兄の教育方針の違いから行き違いが多くなり、結婚は続けていたもののほとんど口も聞かず別居に等しい状態だった。
そんな中、真ん中の自分は両親のどちらにも可愛がられずに育っていた。
たぶん、兄弟の中では私だけが、幼稚園のころからのぜんそくで苦しんでいたからだろう。両親にとって私は手がかかる子供だった。
それが、私がどちらの親にあまり愛されなかった理由かもしれないし、社会的に成功できなかった理由の1つかも知れない。
そんな家庭に育ったせいか、子供のころからいつも心に寂しさや辛さが付きまとっていた。
日常を超えた世界があって、現在の自分のあり方のすべても、それがカギになっているのではないかと漠然と思うことがあった。
大学でも職場でもうちとけた気持ちになれず、心から幸せと感じたことがない。
だれも自分を本当は必要としていないし、自分に生きている価値などないのだ感じてやりきれなくなる思いだ。
そういえば、最近、駅で電車が来たとき、このまま飛び込めば楽になれると思ったこともあった。

宗教との出会い

そんな折、ある知人から宗教への勧誘を受けた。
普段ならいわゆる宗教団体や信仰者に全般的に違和感や怪しい印象を抱いていた自分だが、こんな時期にこんな話を持ちかけられるのも何かのタイミングではないかと感じその人と一緒に教会に行ってみた。
行ってみると教会長は温和な人でほっとする思いがした。
教えの内容も特に怪しいという内容ではなく、むしろ自分の今までの人生につきまとっていた疑問に答えてくれるような感じがした。
それでも、教会長に、「怪しいと思ったらいつでも信仰を捨てることができるのですか」と尋ねると、教会長は優しい笑顔を見せながら、「強制された信仰は、偽りです。それは、信仰しないよりももっと悪いものだと思っています。」という返答だった。
それで「この人は信用できる人物だ」と思い安心した 。
今まで出会ったことのない安らぎを与えてくれる人物だった。
そうして、何度か訪問をしているうちに、信仰を勧めてくれた教会長 に応え、入信を決めた。

教団の二つの柱

本教団では、祈りの儀式と生活実践が、信徒が実行すべき実践の2つの柱である。
生活実践の根幹は今までの自分の在り方を反省し誠実な愛と感謝の心で生きることだと教えられた。
一方、人間の心は弱いもので、生活実践だけでは不十分であり、儀式がより重要であると教えられた。
すなわち、毎日朝と夜に30分から1時間、自宅に神の象徴である小さな彫刻を備え、その前で食物を供え、そこで心をこめて神への賛歌を唱えるのである。
もちろん、神には本来食物など必要はない。
しかし、これは神が人間を救済するためにいわば契約として与えたチャネルである。
人間の生存にとって不可欠の重要な食物を捧げることで、人間の命を神に捧げ、神の愛に触れていくのである。
そして賛歌を心をこめて唱えることで、人間の小さな誠実さや小さな愛と感謝の心が、それを根源から支える神の大きな心と触れ合って融合していくのである。
日曜日には教会での感謝礼拝に欠かさず参加し、そのような儀式を集団でおこなう。
集団でおこなうことで人々の心はお互いに高めあい助け合い、神の愛により生き生きと触れることができるようになるのである。

信仰を持ってから変わった事

信仰に入ったからといって、喘息が治るわけでもなく、家族の仲がよくなるわけでもなく、また給料が上がるわけでもなかった。
しかし、そんな現世のことより重要なことがあると教えられた。
現世から事後の世界までを貫き通す絶対の幸福の世界に至ることだ。
実践を続けていると、自分は一人ぼっちではないという暖かい気持ちがしたきた。
そして、「死にたい」と思っている自分が段々といなくなっていることにも気付いた。
死は終わりではなく、むしろ絶対の幸福の始まりであり、今生きていることはそこに至るためのプロセスなのだ。
人生の大きな転機を迎えたような気がしていた。

信仰への疑問

しかし、ある日ふと「こんなことはすべて気休めに過ぎないのではないか。
宗教とは単なる幻想ではないのか。
これが本当の心の安らぎといえるのだろうか」と感じてしまった。
すると、まるで梯子を外されたような心境となり、心が苦しくてどうしようもなくなった。
落ち込んで教会長に相談すると、「あなたの実践がもう一歩なのです。これからの1ヶ月間、生まれ変わったと思って、日々の実践を、成就を強く願いつつ、心をこめて続けてごらんなさい。必ず道は開けます。」というアドバイスを受けた。
その言葉を聞いても、実際のところ迷いはあった。
以前「いつでも信仰を捨てる」と言ったことも思い出した。
しかし、どうせ信仰を捨てるなら自分でも納得がいくくらい実践に打ち込んでからでも遅くはないとも思った。
また、そうしないときっと後悔するだろうとも思った。
それから1ヶ月、それこそ無我夢中で実践に打ち込んだ。
そして、1ヶ月が過ぎた時、朝の儀式において大きな歓喜が訪れた。

本当の信仰とは

突然、何もかもが分かったという気持ちになった、今までの自分とは違う自分に気付いた思いだった。
その瞬間、神はいつも私のそばにいるのだ。
私はいつも見守られ、愛されているのだ。
そして、死後は絶対の幸福の世界に行くのだ。
何も心配する必要はないのだと悟ったのだ。
涙が止まらなかった。
しかし、不思議なことに、驚きを感じるよりも、以前からの約束が果たされたのだと感じている自分がいた。
教会長が教えてくれたとおりだった。
人は死後に絶対の幸福の世界に至るために生きているのだという確信を得た。
今までの自分の人生はこんな当たり前のことを見失っていたのだ。
それは、あまりにも目も前にあり、またあまりにも巨大であるために、見失っていたのかもしれない。
それを素直に感じられて生きていくことができれば、この人生の小さな浮き沈みに一喜一憂する必要はない。
日々大きな喜びに包まれて生きていけるのだ。
これは、気休めの思い込みでもなければ単なるイデオロギーでもない。

信仰を持って伝えたい事

この経験を通じて私は、自分が生まれてきたことにも、そして目の前で経験することにも、かならず意味があるのだと実感するようになった。
もし人生で苦しんだり悩んだりすることがあっても 、それは大きな愛を学んだり表現したりするためのチャンスなのだ。
同じように何かの欲望を抱くことも、チャンスなのだ。
その時、人間の命を神に捧げ、神の愛に触れていくならば、人間の小さな誠実さや小さな愛と感謝の心が、それを根源から支える神の大きな心と触れ合って融合していくのである。
すると、小さなエゴは解体され、より大きなものの中で再構築されて、真の自己実現が果されるのだ。
それは空理空論ではない。
正しい信仰があれば、偉大なる愛の力によって、死後は絶対の幸福の世界に行くのだという確信が生じてくる。
すると、現世のことは何も心配する必要はなくなり、欲望に振りまわされることもなく、日々を安心して生きていけるのだ。
そしてその時、本当の成長や価値の実現を楽しむことができる。
すると、苦しんだり欲を持ったりしている自分は、より大きな愛の中に生きるより大きな自分へつながっていくためのチャンスだったことに気づくのだ。
全てがチャンスなのだから、自分の今までの人生にも、そしてこれから生きていくことにも、宇宙で唯一のかけがえのない意味があるのだ。
今にして思えば、10年前のあの経験は、まさに自分に与えられたチャンスだったのだと思う。
しかし、正しい信仰を持つことができなければ、そうとも知らず、更なる苦しみや満たされない欲望の中で当てもなくさまよう人生を続けることになったのだろう。
しかし、多くの人々が今の世の中では、どこに向かうともなく転変しさまよい苦しむ、一喜一憂の人生を送っている。
まるでいたずらな運命というプレイヤーに放り投げられ、あちらこちらにとバウンドするラグビーボールのようだ

そのように苦しむ世の人々の助けに少しでもなればと願いつつ、教会長の指導に感謝しつつ、この拙い体験談を書いた。




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