私は元々、お彼岸やお盆のお墓参りを欠かさない家庭に育ったので仏様に合掌する事にそれほど抵抗はなかったのですが、ご先祖に対する思いはあっても特に信心深くもなくどちらかと言うと自分中心のわがままな性格だったと思います。
きっかけも母の家族入信だったので特にきっかけはありません。
信心深かった私の母方の祖母が知人に誘われて最初にお参りしたいと言ったので、母は祖母を連れて行くために入信したそうです。
信仰が強くなったきっかけ
母は信仰しなさいとは一言も言わなかったのですが、まるで毛孔からしみこむ様に自然に信仰するようになって今があります。
入信していても義務的に強制される事が一つもなく自分の所の信仰だけが素晴らしいと声高に主張するのではなくむしろ他宗教の方々と融和和合していこうという融通無碍なところです。
私の信仰
自分のできる限りですが、相手のことを気遣って身・口・意の三業(例えば人を責めたり傷つけたり、心や体で犯す業)を犯さないように心掛けています。
ちょっとした事ですぐに落ち込んでしまう性格なのですが、「まあいいか」と思える回数が増えて人の言動に引っかかる事が前よりも少なくなってきたように思います。
そんな性格だったので落ち込むことが多くて精神的にしんどかったのがかなり楽になりました。これは私にとって本当に有り難いことです。
教え
「社会即道場」の教えなので、この信仰を持って生きている限りこの社会の中で人は磨かれて行くのだと思います。
命が終わる時まで修行し続けるのだと思っています。
この教えに疑問に思うことはなかったし、もし疑問に思うことが出てきても遠慮なく尋ねられる環境にあると思います。
自我の心
なかなか自分中心の「我」の心を滅することができなくて自分自身に歯がゆい思いをすることはありますが、信仰すること自体にはまったく悩みや疑問はありません。
信仰で悩み苦しむのは本末転倒ではないかと思います。
「大乗利他(自分のことよりも他のために為す)の心」は大切だと思っています。
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