私は以前、たった一回きりの人生の価値とは、ただ成功することしかないと信じ、また他人に依存することはしたくない、他力本願など弱いものがするものだと思って生きていました。
そのために一生懸命の努力しか生きる道はないのだと強く信じていました。
それでも人生がうまくいかないことを他人のせいにし、自分と異なる人の意見に怒りを持ち、自分を理解しない人に不満を持ち、将来に関しては、ただぼんやりとした不安を持っていたので、それを払拭するためにどうすればいいのか?といつも考えていました。
努力しない、また能力を発揮しようともしない他人を下見にし、私はこの人たちとは違うと心の中で差別していたと思います。
変化のわけ
そんな生き方をしている中で、クリスチャンの友人と再会し、彼女の母親が自宅に招いてくれた時、私に聖書生きた言葉でひも取いてくれたのです。
聖書は言います。「私はあなた方のためにたてている計画を知っていると主は言われる・・・」と。
それは、天地創造前より、私をご存知で私以上に私を知り、私を造ってくださった天地創造主なる方が私にオリジナルの人生計画を持っていることを教えてくれました。
はっとしました。
私に人生の計画を持っている神。
途端に大きな方が自分にしっかりした足場を作ってくれたように思えました。
他力本願なんて嫌だと思って生きてきたけれど、実は創造主なる神の御手の中ですべてを与えられて今までも生かされていたのだと気がつきました。
洗礼まで
「私こそ、弱い人間。神を神とも思わず、高慢に生き、今、自分のためにイエスが身代りになって十字架で裁かれるというのに・・・。私が裁かれて当然なのに、私の罪の身代わりに神である方がいのちを捧げられる・・・。私は神であるイエスの命よりも尊い存在ではないのに、神は愛ゆえに私の代わりに罰を受けるのだ・・・こんなわたしのために。」
と自分の罪深さを知らされた時、神が私を愛してくれていること、自分の命を身代りにされ、私に命を与えるために与えられたイエスキリストの犠牲の愛、赦され、生かされていることへの恵みと感謝に満たされました。
今も生きておられる神との交わりの中で生きて行く心の平安が与えられました。
「この方しかいない。」と確信し、お祈りして、心の中に神様をお迎えし、ともに生きてくださること、導いてくださることに感謝しつつ、洗礼を受けました。
神への愛の芽生え
そこから、私への神の介入が始まりました。
他人と自分を比べる人生をやめ、心の傷がすこしずつ癒され始め、解放され、そのことによって他人を愛し、赦すことができるようになりました。
何が起きても、よき神のよき計画しかならない・・神は私を愛しているから・・・とゆだねるようになりました。
ゆえに平安があります。
本当に人生が豊かになったと思います。もはや自分の人生は自分だけのものではない、神がいつもともにいてくれて導き、生かされていることがとても嬉しいのです。
聖書と向き合う日々
日々、聖書の神の言葉に訊き、そのみこころを少しずつ理解できるようになりました。
頭で理解するだけではなく、その自分の場面において聖書のことばが思い出され、それを実践することでその深さを体験し、味わうことができようになりました。
また困難があってもまず祈ることによって平安が与えられ、自分が解決するのではない、神様の導き、考えを聞いて従おうと信頼できるようになっていきました。
そして、祈りはいろいろな方法できかれていくことを体験して、ますます神に信頼するようになりました。
自分の浅はかな考えでは何も解決しないけれど、全てご存知の神のみこころの方法で導かれることが私の喜びになりました。
クリスチャンという自分
クリスチャンになった後も、不条理なこと、傷つくこともたくさんあり、思いがけないことにも遭遇します。
でも、この世のことで神様の関与しないことなどないのです。
すべては御手の中ということ。
全能の善きことしかなさらない神は、これを結果ではなく今まさにプロセスの中に置いてくださっています。
目を神様に向けよう、神がこのプロセスの中に置かれた理由も教えてくださるのだ・・・と信じる信仰の助けも与えてくださいます。
「私を呼べ、聖なる山に目を向けろ。あなたが考えもつかなかったことをしよう。」と聖書の神は今も生きており応えてくださいます。
だからと祈って、神との関係を深めること。
神の愛に、私が自ら応答すること。
毎日の喜び
こんな人生があるとは!と毎日が新鮮です。
天地を創られ、私たちを愛してやまない神との個人的な関係におり、直接神から語られて、教えられる関係は、本当に生きている実感そのものです。
私の新しい人生は、人を顧み、出来る限りの助けをすることで神に応答していきたいと思っています。それは、実は神にお仕えすることだからです。
そして、「すべて疲れた者、重荷を負っている者は私のところに来なさい」といわれる神、身代わりの命を与えてくださったイエス様を証する人生を送りたいと思っています。
これが、私が生かされている時間の中でやるべきことだと思っています。
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