生まれた時から既に入信状態で、信仰のない生活を考えることができません。
生活の一部に既に、教会へ通うこと、そこで信仰の話を聞くこと、信仰を通しての生活の仕方や物の考え方などを教えられていました。
信仰するのが当たり前で、信仰のない人や家庭のことを考えたことがありません。
信仰は違っても、皆、自分の信じる教えがあると思っていました。
家族が皆入信していましたので、信仰するのが当たり前と思っていました。
特に大きなきっかけはありませんが、4歳頃には既に教会に参拝し、子供の集まりに喜んで行っていた記憶があります。
そこでの楽しかった思い出は、後に自分の信仰は楽しいと思えるきっかけになったと思います。
信仰のきっかけ
動機は家族が入信していたから、というのが一番だと思います。
自分が成長するに従って、信仰の実践に否定する要素がないと思いました。
自分の信仰で教えられている事では自己否定はなく、全て自己肯定の上に成り立っていると思ったことが長く信仰を続ける動機になっていると思います。
特別なことは何もないこと、自己否定ではなく自己肯定があって初めて成り立っている教えだと思った点です。
他の信仰を攻撃したり、否定したりすることはありません。
全て含めて、自己肯定であることが自然で納得できています。
自分は生かされている
常に自分は生かされていると思うこと。
教えは自分の思いではないことを自覚し、他の方や自分の家族に教えをそのまま伝えること。
教えを通した生活の在り方、物の使い方に気付かせてもらえるよう祈ること。
自分の周りの方で、理解者が増えたこと。
また、自分が親から受け継いだ信仰を、自分の家族が大切に思ってくれて、受け継いでくれるようになりました。
困った時、思いが間違っている時に気付かせてもらえるようになりました。
信仰を続けてよかったと思っています。
特に自分の大切にしている信仰を、家族が同じように大切にして受け継いでくれることは、亡き母の願いである「家族信仰」の実践なので本当に嬉しく思っています。
信仰のある生活
特にやめる理由もなく、信仰は生活そのものの教えなので、続けるとかやめるという発想はありません。
何かあったからといって、教えそのものが変わるわけではないので、そのような発想には至りませんでした。
特に悩みはありません。
自分の信仰を理解されない方もいて当たり前だと思っています。
もし悩みや疑問が生じたとしたら、それは解説を受け、自分の在り方を知り、考えていきたいと思います。このような悩みや疑問を前提とした質問に少々戸惑ってしまいました。
「変わらない教義」だと思います。
教えの根本がぶれないことが信仰を続けていくことができる唯一の道だと思い、大切な部分だと思います。
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