私は信仰する家庭で育ち、物心ついたときから信仰しているので、信仰する前と後での差があるかどうか考えたことがありません。
信仰する事は私にとっては普通になっているのです。
今までの人生を思い返しても、目標や夢を全て叶えてこれ、何よりも家族が幸せで仲が良いことが信仰の結果であると実感しているので信仰に疑問を持つ事がありません。
信仰のきっかけ
きっかけは特になし。
祖母と母が信仰していたので、その姿を見て自然に信仰を受け入れました。
信仰するのが当たり前だと思っていました。
組織の先輩も家に訪ねてくれるなどの行為がありましたが、それが直接のきっかけになったわけではありません。
動機も特にはありませんでした。
前述のとおり信仰するのが当たり前だと思っていたので、何かの問題や課題を解決するために信仰するのではなく、日々の祈りから信仰の勉強、その他もろもろのことを日常生活に組み込まれることが普通で違和感がありませんでした。
困難、問題があってもそれに負けない心、自分の弱い心、命に向き合ってそれを克服する為には、祈りも他人の力も必要だとわかっていました。
組織には勿論色々な人がいますが助け合いながらお互いに成長できると思っています。
信仰とは
信仰するというのは、何か外にいる神様に助けて下さいと祈る事ではなく、自分自身の心のうちにある良心、勇気、優しさなどの善の心を引き出す事だと思っています。
なので、毎晩その自分の善の心に対して、祈り、他人に対しても善の行いができるように日々精進していく事が大事だと思っています。
信仰の力
前述のとおり、信仰しているからこそ、家族が仲良く、何不自由なく生きているし、自分や家族に何か問題が起こったとしても、必ず良い結果として表れることが信仰の素晴らしさだと感じます。
例えばですが、私は仕事を何度か転職して変えていますが、いつもやりたいと思った仕事につけています。
いつも次の目標や、やりたい事ができる仕事にありつけることはとても意味のあることだと思いますし、それは信仰の結果だと思っています。
継続の力
信仰は続けなければ意味がありません。
何故なら人生には何が起きるかわからないし、信仰は自己実現だけの手段ではないからです。
自分だけでなく、他人の成長・幸せを祈り、実行していくには信仰を一生続けなければ意味がない。
一番の課題は仕事と信仰の活動の両立が時間的・体力的に難しい事でした。
仕事優先の日々が続いて、思うように信仰活動ができないことが多いです。
自分のやるべきことを他人にまかせてしまっているので、迷惑をかけてしまっていることが心苦しいです。
時間をつくるように努力するのは自分なので、甘えている自分を叱咤激励せねばならないと思う日々です。
信仰に大事な事
先ほども書いたように、困難や問題から逃げないこと。
自分と向き合い、それをどう乗り越えるか、知恵と勇気を持つためには、信仰が不可欠です。
信仰をしていて、今一番幸せだと思うことは、自分の周りに良い人が現れ、その人たちがいろいろと自分を守ってくれる事です。
仏法では良い人のことを善知識と言いますが、まさに良い人たちに出会い、助け合って生きていけることが最大の幸せだと思います。
それはお金では買えず、目にも見えませんが、一番の宝だと感じています。
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