家庭環境は、宗教を信仰することにどちらかと言えば否定的で、お彼岸やお盆に先祖供養を行うことは、信仰心からではなく、体裁で行なっていました。
「生きていく際には必ず苦しい時がある。しかし、その苦しみを逃れるために宗教にすがるのではなく、自分自身の力で克服していかなければならない。」
これが我が家のモットーだったので、宗教とは精神的に弱い人々が心の安定を図るための依代としているもの、とおもっていました。
信仰のきっかけ
結婚を機に信仰するようになりました。
妻やその家族が熱心に信仰しており、結婚の条件が入信し信仰することでした。
私は宗教を信仰することに対して特に抵抗を感じることがなく、すんなり入信しました。
結婚の条件として「信仰する」ようになったので、具体的な「願い」はありません。
よく他の信者の「御利益談」を聞くことがありますが、さして羨ましいとも思わず、その「御利益」も果たして信仰しているからなのか、と思うこともあります。
信仰しているのも妻にお願いされているからで、熱心とは言えません。
儀式的なもの
「お釈迦様に、お釈迦様から教えていただいたお経を読み聞かせるのはおかしい」という話は確かにそうだ、と思いました。
また、1年のなかで決められた時期だけ供養するのではなく、「常盆・常彼岸」の精神で先祖供養を行うこと、自ら信仰する宗教以外は全て受け入れず、「雛祭」「端午の節句」「七夕」などの祈願を行うようなものは徹底して行わないところが、厳しいが理にかなっていると思います。
わたしの日課
毎日の仏壇の水の取替が日課になっています。
お寺から配布されている日めくりを日付と合うように整え、その日その日に書かれている文章に目を通して御題目を唱えること。
休みの日はお寺に参詣すること。
月に何度かある「御修行」という集まりの為にお寺を清掃することなどです。
信仰を持ってから変わった事
信仰を持ったからと言って何も変わっていないと思います。
しかし、日々平穏無事に過ごせていること。
それが一番の「御利益」なのかもしれません。
子供も生まれ、家も建てることができました。
経済的に楽ではありませんが、皆、健康に過ごせていること。
信仰しているから、と素直には思えませんが日々幸せに過ごせていることには間違いありません。
信仰のすばらしさ
日々幸せに過ごせることは素晴らしいことだと思います。
ただ、平穏であることは「普通」だと感じやすいため、当たり前だと思いやすいです。
私はあまり信仰心が無い為、平穏な日々を営んでいけることが「信仰」によるものだとは思えず、他人から指摘されると複雑な心境になります。
もし「信仰」をやめるとしたら、それは妻と離婚した時だと思います。
もともと結婚の条件として「信仰」するようになったので、離婚後は信仰しようとは思わないと思います。
一番の教え
ただ、よく「他人にこの教えを伝え、助けなさい」と言われます。
他人を助け、その結果、自分も救われる、ということらしいですが、今のところ、これが「一番大切な教え」かと思います。
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