特に意識はしていなかったが、同級生のすすめで小学校の時に初めて近所の教会に行った。
家が仏教(当時はこれが一般的)であり、それについてはあまり興味がなかったのだが、法事などに行けばちゃんと手をあわせたり線香をあげる程度のことはしていた。
ただ自主的にしていたわけではなかった。
小学校の時の同級生が教会のパンフ のようなものを持っており、それを見せてもらった。
子供集会か何かで配られたのか比較的平易な言葉で書かれており、カラーがふんだんに使われていたものだった。
今までは仏教の世界しか知らなかったので、大変新鮮で、彼女から話をきくうちに教会に行ってみてもいいかなと思い始めた。
信仰のきっかけ
教会に実際に行って、神父さんや他の信者さんの話をきいていて、神は本当にいるのかもしれない、と思いはじめたのがきっかけと思います。
結局断続的ながら日曜教会に通い、18で洗礼を受けるまでになりました。
自分では人前で披露できるようないい話にはめぐりあっていませんが、ひょっとすると神はいるのかもしれない、あるいは天使はいるのかもしれないという気持ちに今も変わりはありません。
讃美歌を歌うことが多かったので、それがよかったと思います。
難しい話はわからないのですが、讃美歌の歌詞というのは古語ではあるものの比較的わかりやすい表現が多く、そこから入っていきやすいのではないかと考えます。
ありがとうという言葉
何かいいことがあったら心の中でも「ありがとう」という。
必ずしも口に出していわなくても、そういう気持ちを持つことが大切と考えます。
これなら口ベタな人であっても大丈夫ですね。
いいことがあっても、それを当たり前と思わないことが重要ではないでしょうか。
信仰するようになってから
主観ではありますが、人生が安定してきたように思えます。
今までは何かというと波風が立ちやすく、それによってまわりとの関係がギクシャクすることも多かったのですが、私の性格が丸くなったのかそういったことは起こりにくくなったような気がするのですが。
ものごとが潤滑にすすんでいくためには、人との円満な関係は欠かせないと思いますので、上記のようになったことは大変喜ばしいと思っています。
少なくともトラブルメーカー的に周囲から見られていないことは好ましいことと考えます。
これからもこういった流れが継続していけばと願っております。
私の信仰のやり方
自分の心の中に信仰があるのであれば、教会に行かなくともよいという考えに至りました。
それによりいつでもどこでも、気持ちが神や天使とともにある、という考えに20代半ばくらいから変わり始め、現在教会には行っておりません。
ですが、洗礼も受けましたので私はクリスチャンに変わりないと思っています。
悩みは特にありませんが、同じ信仰の方ともっといろいろな形(教会に行くとかにとらわれず)で交流がはかれたらと思います。
たとえば文通などでもいいかもしれません。
ですが、どのように相手を探せばよいかがよくわかりません。
これが唯一の悩みといえば悩みかもしれません。
人を憎まないこと、人をうらまないことかもしれません。
ですが、私は小さいことには多少目をつぶれるようになったものの、大きい事件にはまだそこまで到達できていないため、いけないことはいけないとしっかり人を諭す姿勢が変わっていません。
これが変わればいいのかもしれませんが、なかなかうまくいくものではありません。
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